「長い間、本当にお疲れさまでした。」
拍手の中、花束を受け取った正夫は、深く頭を下げた。
六十五歳。
大学を卒業してから四十年以上、同じ機械メーカーで働いてきた。
営業として全国を飛び回り、管理職になってからは若い社員の育成にも力を注いだ。
忙しい毎日だった。
仕事が嫌になったことも、辞めたいと思ったこともある。
それでも、会社へ向かうことが当たり前の人生だった。
退職の日。
同僚たちに見送られ、会社の建物を出た。
もう明日から、ここへ来る必要はない。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな穴が開いたような気がした。
翌朝、いつもの時間に目が覚めた。
ネクタイを締める必要もない。
電車の時刻を気にする必要もない。
妻は笑って言った。
「これからは、好きなことをすればいいじゃない。」
正夫も笑ってうなずいた。
けれど、自分が何を好きだったのか、すぐには思い浮かばなかった。
一週間が過ぎた。
テレビを見て、散歩をして、新聞を読む。
自由な時間はたくさんある。
それなのに、どこか落ち着かなかった。
ある日、近所の公園で、少年たちが壊れた自転車を囲んで困っていた。
「どうしたんだい?」
正夫が声をかけると、一人が答えた。
「チェーンが外れちゃって。」
昔、息子の自転車を直したことを思い出した。
正夫は安全な場所へ自転車を移し、少年たちと一緒にチェーンを確認した。
しばらくして、無事に元どおりになった。
「おじさん、ありがとう!」
少年たちが笑顔で走り去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、正夫は久しぶりに心が弾むのを感じた。
会社では、肩書きがあった。
責任も、役割もあった。
でも、誰かの役に立つことは、会社の外でもできるのかもしれない。
帰宅すると、正夫は地域のボランティア活動を調べ始めた。
まだ何をするかは決めていない。
それでも、少し楽しみだった。
仕事は終わった。
けれど、自分の人生まで終わったわけではない。
正夫は窓の外を見ながら、明日は少し遠くまで歩いてみようと思った。
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