2026年11月7日土曜日

それぞれの、働く理由|定年と生きがい|定年の日、仕事が終わったと思った


 「長い間、本当にお疲れさまでした。」

拍手の中、花束を受け取った正夫は、深く頭を下げた。

 六十五歳。

大学を卒業してから四十年以上、同じ機械メーカーで働いてきた。

営業として全国を飛び回り、管理職になってからは若い社員の育成にも力を注いだ。

忙しい毎日だった。

仕事が嫌になったことも、辞めたいと思ったこともある。

それでも、会社へ向かうことが当たり前の人生だった。

 退職の日。

同僚たちに見送られ、会社の建物を出た。

もう明日から、ここへ来る必要はない。

そう思った瞬間、胸の奥に小さな穴が開いたような気がした。

 翌朝、いつもの時間に目が覚めた。

ネクタイを締める必要もない。

電車の時刻を気にする必要もない。

妻は笑って言った。

「これからは、好きなことをすればいいじゃない。」

正夫も笑ってうなずいた。

けれど、自分が何を好きだったのか、すぐには思い浮かばなかった。

 一週間が過ぎた。

テレビを見て、散歩をして、新聞を読む。

自由な時間はたくさんある。

それなのに、どこか落ち着かなかった。

ある日、近所の公園で、少年たちが壊れた自転車を囲んで困っていた。

「どうしたんだい?」

正夫が声をかけると、一人が答えた。

「チェーンが外れちゃって。」

 昔、息子の自転車を直したことを思い出した。

正夫は安全な場所へ自転車を移し、少年たちと一緒にチェーンを確認した。

しばらくして、無事に元どおりになった。

「おじさん、ありがとう!」

少年たちが笑顔で走り去っていく。

その後ろ姿を見送りながら、正夫は久しぶりに心が弾むのを感じた。

 会社では、肩書きがあった。

責任も、役割もあった。

でも、誰かの役に立つことは、会社の外でもできるのかもしれない。

 帰宅すると、正夫は地域のボランティア活動を調べ始めた。

まだ何をするかは決めていない。

それでも、少し楽しみだった。

仕事は終わった。

けれど、自分の人生まで終わったわけではない。

正夫は窓の外を見ながら、明日は少し遠くまで歩いてみようと思った。


#定年退職
#セカンドライフ
#生きがいを見つける 

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