「本当に、辞めてしまって良かったのかな。」
平日の午前十時。
カフェの窓際でコーヒーを飲みながら、麻衣はそんなことを考えていた。
三十八歳。
十五年間勤めた会社を、三か月前に退職した。
大学を卒業してから、ずっと正社員として働いてきた。
営業事務から始まり、後輩の指導や部署の業務改善も任されるようになった。
仕事には責任があり、収入も安定していた。
周囲から見れば、順調な社会人生活だったと思う。
けれど、いつの頃からか、毎日が同じことの繰り返しに感じられるようになった。
朝早く家を出て、夜遅く帰宅する。
休日は疲れを取るだけで終わってしまう。
「この先も、ずっと同じ生活を続けるのかな。」
そんな疑問が、少しずつ大きくなっていった。
退職を決めたとき、周囲からは何度も引き止められた。
「もったいないよ。」
「次の仕事が決まってからの方がいいんじゃない?」
その言葉は、どれも間違っていないと思った。
麻衣自身も、将来への不安を感じていた。
それでも、一度立ち止まってみたかった。
退職後、しばらくは何もしない日が続いた。
最初は自由な時間がうれしかった。
しかし、平日の昼間に一人でいると、社会から離れてしまったような気持ちになることもあった。
そんなある日、以前の同僚から連絡が入った。
「新しい職場で業務の見直しをしているんだけど、少し相談に乗ってもらえない?」
麻衣は久しぶりに、仕事の話に夢中になった。
業務の流れを整理し、改善できそうな部分を一緒に考える。
数日後、同僚から連絡があった。
「ありがとう。すごく助かったよ。」
その言葉を聞いて、麻衣は気づいた。
会社を辞めたからといって、これまでの経験までなくなったわけではない。
自分には、十五年間で身につけた知識や力がある。
それを、これからどんな形で生かすかは、自分で考えていいのだ。
その後、麻衣は短時間の仕事を探しながら、業務改善の支援についても学び始めた。
収入は以前より少なくなるかもしれない。
将来の見通しも、まだはっきりしていない。
それでも、働く時間や場所を自分で考えられることに、新しい可能性を感じていた。
カフェを出ると、秋の風が頬をなでた。
正社員を辞めて、何かを失ったのかもしれない。
でも、それだけではなかった。
これまでの経験を、これからの人生にどう生かすか。
その問いと向き合う時間を、麻衣は手に入れていた。
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